Keiko's Yokohama Journal

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災害・災難時の買い占めをする人は他人に配慮がない証拠

2019年に中国から始まったコロナウィルスは、翌年、日本へ瞬く間に上陸し、世界中をパニックに陥らせた。その結果、店頭ではマスクや消毒剤があっという間になくなり、どこの店をさがしても売り切れという状態が何か月も続き、本当に困ってしまった。

これは日本だけでなく、アメリカやヨーロッパなど世界中で起こった現象だが、アメリカではマスクや消毒剤だけでなく、日用品や食料品の争奪戦もあり、棚にあった商品がガラガラになってしまっていた。

日本では食料品の争奪戦まではなかったようだが、2011年の東北大震災の時はまさにそれが起こった。横浜でも大きな地震があったが、私が住んでいた地域ではほとんど被害がなかったため、震災の数日後にいつもの通りに近くのスーパーへ買い物にいったら、人が行列を作って並んでおり、なくなりかけている商品棚を見てびっくりした。

買い物客のかごの中を見ると、ありとあらゆる食料がぎっしり詰め込まれ、かご1つだけでなく、2つ、3つも抱えて買い込むお客さんばかり。一体何事か???!、と思いつつ、こんなことを皆がやると自分の必要な物が手に入らないではないか、と怒りを感じた。結局、必要な物が手にはいらなかったが、この人間の浅ましさ、貪欲さを生まれて初めてこの目で見て、ある種のショックを覚えた。

人間のやることは、やはり日本人、アメリカ人、中国人に関わらず、やることは同じなのだ。

人間の心理として、他の人達が食料を買いあさっているのを目の当たりにすると、自分も買わなければ自分の分がなくなってしまう、と感じてしまうのだろう。しかし、物流は、一時的には止まってしまっても生産者自身が大勢亡くなってしまったわけではないから、時間が経てば復帰する、ということを何故冷静に考えられないのか、と思う。

聖書では、むさぼりについて述べている箇所が旧約聖書にも新約聖書にも幾つか書かれているが、それは何故か?私達人間は、元々むさぼる性質を持っているからである。

一つの例として、申命記23章24~25節には、ぶどう畑に入った時は、自分が食べる分は食べても良いが、かごに中には入れてはいけない、また、麦畑に入った時は、手で穂を摘んでもよいが、鎌を使って刈り取ってはならない、と書かれている。

つまり、自分が必要以上のものは取ってはならない、ということなのである。

このように、当時のイスラエルでは、このような他人の人達にも十分配慮された律法が既にあったのである。

常時の時は、人間は理性を持ち、平静さを保てるが、その人の人間としての本当の真価は、このような災害時・災難時、または困難時にどのような行動・振る舞いをするかによって現れるのである。

私自身、それが完璧にできているとはとても思えないが、どのような時にも自分だけでなく、他人にも配慮できる人間でありたいと思う。