Keiko's Yokohama Journal

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日本でキリスト教が浸透しないのは、クリスチャンが魅力的ではないから

「クリスチャン」という言葉が嫌い

(注:上記の写真は、本文と関係ありません。)

私は、神は唯一であり、イエス・キリストをこの世に送った神であると信じるクリスチャンだが*、そもそも私は「クリスチャン」という言葉が嫌いである。

それは何故かと言うと、「クリスチャン」の言葉自体が自分が神に選ばれたという選民思想が漂っており、クリスチャン以外の人達とかけ離れた何か別の胡散臭い気がするからである。なので、私は英語ではよく"I am a Jesus follower"という言葉をよく使う。

しかし、日本語では便宜上、「クリスチャン」という言葉を使った方が分かりやすいので、ここではその言葉を使うことにする。

*注釈:これを一般的には「プロテスタント」と呼ぶが、イエス・キリストが私たちの罪をために十字架にかかって3日後によみがえったことを信じていればカソリックプロテスタントもない。教派は人間が勝手に作ったもので、神様が作ったものではないからである。但し、統一教会とかエホバの証人モルモン教など、キリスト教と言いながら、実は聖書の本来の教えと乖離している異端があるので、それらは正統派のキリスト教とはみなされていない。

キリスト教が大嫌いだった大学時代

私は大学3年生の時に神様を信じるようになったが、それまでは全くの無宗教、その当時はオウム真理教や、モルモン教の学生達が町を結構ウロウロしていたり、エホバの証人の人達にしつこく街頭で声をかけられたりしていたので、宗教は大嫌い、その中でもキリスト教は特に嫌いだった。

何故、私がキリスト教をここまで嫌っていたのか、それは日本人のクリスチャン達を見ていると、何だか暗そう、規則や教会関連の活動が多くて色々なことで縛られていそう、律法的、楽しそうでない、閉鎖的、といったネガティブなイメージしかなく、かと言って表面的にはさぞ幸せそうに、私は大丈夫よ、と取り繕っている「偽善者」が多いと感じていたからです。

私は絶対に一生、彼らの仲間にはなりたくない!!

そう思っていました。

聖書を読むようになったきっかけ

大学に入学してから、卒業後はアメリカ留学を狙っていた私としては、とにかく英語を磨きたいと思って、英語サークルに入りました。当時は、20代後半くらいのアメリカ人宣教師と30代の日本人宣教師の方が主体になって皆で集まっていました。今思えば聖書研究会のようなものだったと思いますが、それを前面に打ち出さず、どちらかと言うとイベントや合宿などレクリエーションが主体の超ゆるいサークルだったので、聖書は教養程度に知っておく程度で、英語が勉強できて、仲間ができればいいや、という軽い気持ちで参加しました。

当初の私は、ネイティブから英語を直接学びたかったのと、一人を除いて参加者全員がクリスチャンではなかったので、気軽に参加できました。また、聖書を勉強している時も、押しつけも何も全くなく、時には聖書から逸脱して、別の話題になったり、突拍子もない議論に発展したことも結構あったので、議論好きだった私にとっては、結構楽しく参加できました。

それでも、クリスチャンに対するネガティブなイメージはずっと持っていたので、聖書を学んでも、絶対にクリスチャンだけにはなりたくない!、と思っていました。

クリスチャンに対するイメージが変わったきかけ

それは、アメリカの学生達のクリスチャンの団体CCC(Campus Crusade for Christ)が夏の間、大学にやってきて、私達のサークルに加わった時からでした。日本人のクリスチャンとは違い、彼らがあまりに普通(?)の大学生で、その辺の普通の大学生と全く変わりなかったので、私はすぐに彼らの何人かと友達になりました。

彼らは本当に普通の人達だったのですが、唯一、日本人クリスチャンと違うところは、イエス・キリストのことを堂々と、かつ自信と確証を持って話していたことでした彼らの中には、日本人の中で多いいわゆる「忖度」というものはありません。非常にストレートに話してくれるので、それが私にとっては良かったようです。これがもし、オブラートに包んで話たり、相手の顔色を伺いながら話をされていたら、私は即座、彼らも偽善者の仲間だと思い、去っていったことでしょう。

また、彼ら一人一人は、人間的にも非常に魅力ある人達ばかりでした。そんな経験を通して、私のキリスト教に対するネガティブなイメージが徐々に溶け、大学2年生を終わりには聖書を家でも読むようになり、1年後に信じるようになったのです。

日本人のクリスチャンで魅力的だなと思う人が少ない

その後、私は国際ロータリークラブからの奨学金を得て、アメリカの大学でMBAを取得後、9年間アメリカで働くことになりました。その間に多くの素晴らしい友人やクリスチャン達とも知り合いになりましたが、日本に帰国した途端、そのような素晴らしいクリスチャンにほとんど会うことがなく、逆カルチャーショックに苦しんでいました。

幸い、東京で尊敬できるアメリカ人牧師夫婦に出会うことができ、その教会のメンバーになりましたが、未だにアメリカで滞在していた時ほど多くの素晴らしいクリスチャンの友人には出会えていません。これは、そもそも日本人らしくない私自身の性格もあるかもしれませんが。

日本でキリスト教が浸透しない理由

これは、多くのキリスト教信者の中でも、教会の間でもしばしば話題になっていることですが、私から見ると、これは一言でいえば、日本人クリスチャンが魅力的ではない、からだと思います。

ある人が別の人と友達になりたい、お付き合いしたい、と思うのは(金目的は別として)、その人には何か惹きつけられる、自分にはない魅力があるからではないかと思います。それと同じで、クリスチャンになりたくない、キリスト教には興味がない、と思うのは、クリスチャン自身があまり魅力的ではないからではないでしょうか?

私が多くの日本人クリスチャンを見て残念だと思うのは、多くの人達が自分はクリスチャンであることを隠していること、そして、キリスト教を自ら進んで他の人達に伝えようとせず、自己満足で完結してしまっていること、そして日曜日だけ教会に行って”クリスチャン”になっている「日曜クリスチャン」が多いこと、など、何故かコソコソしているような雰囲気があり、同じ仲間として見ていて嫌になることがあります。

こんなことを話すると、クリスチャンの人達から文句をいわれそうですが、突き詰めてみると、多くのクリスチャンは神様を体験していない、精霊の大きな働きを経験していないからではないかと思われます。

未信者の読者がこれを読んで胡散臭いと思わるかもしれないので、これについては、また別途で話したいと思いますが、神様を体験した人たちは、キリスト教を大胆に語れずにはいられなくなります。そのような人達が日本ではあまりに少ないので、結局、日本ではキリスト教がなかなか広まらないのではないかと強く感じています。