Keiko's Yokohama Journal

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私たちのうち、何人がベッドで死を迎えることができるのか?

いつどこ死んでもおかしくない私たちの命

コロナウィルスが始まり、これだけかと思いきや、ロシアとウクライナの戦争、そして更に追い打ちをかけるように先週の金曜日は、日本で安倍元総理の銃殺事件。前のブログにも書いたが、残念ながらこの世の中は、確実に悪化の一途を辿っている。

また、これまで安全だと思っていた日本はもはや安全な国ではない。銃による殺人は、安倍元総理が初めてではなく、最も直近では、今年の1月にあったふじみ野市で散弾銃を持った男がクリニックに立てこもった事件、2019年には歌舞伎町発砲事件、2018年には河瀨駅前や富山市奥田の交番警察官射殺事件など、挙げたら結構キリがない。

それだけでなく、政治家などの公人を狙った殺人事件は今回の安倍元総理だけではない。1994年の細川前首相の銃撃事件、2002年の石井紘基衆議院議員の殺害事件(こちらは銃ではなく、ナイフによる殺人であるが)、2007年の長崎市長の銃殺事件など、戦後だけでも政治家などを狙った様々な事件がある。日本は既に銃社会になっているのだ。

ただでさえ地震や洪水などの自然災害が頻繁に起こり、秋葉原であったような無差別殺人事件、テロ事件が多発するようになった今の日本で、果たしてどのくらいの人達が病院または家のベッドで最後を迎えることができるのだろうか?今後の世の中の動向を考えると、ベッドで死を迎えるよりも、むしろ災害やテロなどで突然命を奪われる人たちが今後ますます増えてくるのではないかと思われる。今回の安倍元総理銃殺事件は、そのことを確信させるような出来事だったように思われる。

自分の命は自分でコントロールできないという事実

キリスト教の死生観を持たない日本人の多くは、何かと死という話題を避けがちだ。にも関わらず、自分たちが死後、どこへ行くのかということも多くの人達は確信を持てないでいる。人間は死後、どこへ行くのかについては、また別途お伝えしたいと思うが、人間はいつか必ず死ぬ、死んだらどこへ行くのか、という現実に目を背け続けているため、自分の死はまだまだ先だ、考えたくもない、という思考に無意識に陥ってしまっているかもしれない。

人間は、自分の職業や住む所、結婚相手など自分で選ぶことができるので、自分で何でもコントロールできると思いがちであるが、その根本である命については、何のコントロールもないのだ。ここだけは神の領域であり、従って、自分の死期については自分自身でさえも分からないのだ。そういう意味で、人間は自分で人生をコントロールしているつもりでも、究極的には神によってコントロールされている、ということに気づいていない。

このことに気づいて生きている人達は、1日たりとも無駄に過ごしたりはしない。自分の命が明日まであるとは誰も保証できないからだ。虚しいことや悪いことには手を染めず、1日1日その日するべきことに集中して精一杯生きることができる。

神を怖れ、死を恐れずに生きる毎日は素晴らしい

死を恐れずに生きるとどういうことが起きるか?それは、自分がいつ死んでも後悔がないということだ。私はまだ歳を取っていないし、やりたいことはまだ沢山あるものの、私が死ぬ時は神様にとってベストなタイミングなので、やり残したことがあっても全く悔いはない。むしろ、天国という最高の場所に住むことができるので、楽しみで仕方ない。

いつ自分が天国に行けるか楽しみで仕方ない状態になると、このような先行きが分からない世の中になっても、たとえ自分が地震などの災害に遭っても日々希望を持って生きることができるのだ。

特に今の世の中、物価も上がり、賃金も下がって生活が徐々に逼迫している中で、戦争や事件、災害などが次々と起こると、多くの人達は夢や希望も持てず、委縮してしまうのではないかと思う。生きる勇気、というのは、これからが本当に試される時なのかもしれない。ここで、私たちがどのような行動が起こせるのか、それによって、どんな状況下においても充実した人生を送れるのか、送れないかの分かれ道になるのではないかと思う。