Keiko's Yokohama Journal

生活、仕事、家族、健康、美容、政治や国際情勢などを横浜から発信

人生の後半で転落する人達の傾向

旧約聖書から読み取れる人間の転落人生

今日は、今朝読んだ聖書の箇所から気づいたことをシェアしたいと思います。

旧約聖書の歴代誌第二の後半では、ユダ王国の悪王によって王家の血筋であるダビデの家系が根絶やしにされる危機に見舞われる。しかし、24章では神様と共に忠実に歩んでいた祭司エホヤダによって、ユダ王国第8代目になるヨアシュ王を赤ん坊の時から教育したお蔭で、ヨアシュ王は神様の目にかなうことを行い、彼の祖母アタルヤによってめちゃくちゃにされた神の宮を修復した。そこでは絶えず全焼のささげ物が献上されるようになり、ユダ王国は再び安定した時代を迎えた。

ところが、その祭司エホヤダが亡くなった後、ヨアシュ王はまるで反旗を翻すかのように神様から離れ、偶像礼拝に傾注するようになった。それだけでなく、祭司エホヤダの子であるゼカリヤがヨアシュ王に対して戒めを与えたため、自分に尽くしてくれたエホヤダの息子ゼカリヤを殺してしまったのだ。

結果、ユダ王国は再度、敵から狙われるようになり、アラムの軍勢が襲い、大きな痛手を負ったばかりか、ヨアシュ自身が重症を負い、ゼカリヤの敵討ちとしてなんと女性達の手によって殺されてしまった、というなんとも悲惨な人生の最後になってしまったのです。

人生の後半で落ちぶれる人の特徴

日本人の著名人や企業人などでも多くみられますが、若い時は人に尽くし、それなりに尊敬を得られ、安定した人生を送っていても、人生の後半で落ちぶれてしまう人がいます。エホヤダもその一人で、彼の父アハズヤ王も同じ人生を辿りました。歴代誌に出てくるユダの王達の人生を見ると、彼らの心が神様から離れる時に人生の転落が起こっていることが分かります。

では何故、ヨアシュ王は祭司エホヤダが生きている間は正しく生きられたのに、エホヤダの死後は転落していったのか?それは祭司エホヤダをただ喜ばせようとして生きていただけで、神様との個人的な関係がなかったからと思われます。

赤ん坊の時からエホヤダにお世話になっていたので、ヨアシュ王にとってはエホヤダは親のような存在だったのでしょう。とにかく子供は親を喜ばせようとして必死になります。いわゆる、「いい子ちゃん」だったのかもしれません。

この「いい子ちゃん」、親にとっては扱いやすい子供でいいのかもしれませんが、自分の意志を無意識のうちに押し殺しているため、他人によって人生が振り回されてしまいます。

実際、エホヤダが亡くなった後、偶像礼拝を続けているユダの首長の願いをヨアシュ王は簡単に受け入れてしいました。もはやエホヤダという後ろ盾がいなくなった後、自分の中で正しい判断基準がないため、他人の意見にいとも簡単に流されてしまったのです。

たとえ親や指導者がどんなに立派でも、その子供が同じ人生を辿るとは限りません。何故なら、人間には皆、自由意志があるからです。同じことを教えても、ある人は100%理解するが、別の人は半分も理解していないことがあります。エホヤダは常に神様に従うようにヨアシュ王を教育したと思いますが、それが根付かなかったということを考えると、親として、教育者としての人間の限界を感じざるを得ません。

人間の傲慢さは年を重ねるごとに現れてくる

また、エホヤダが生きていた間は見えてこなかった、彼の人間としての傲慢さがここで出てきたとも思えます。人間は年を取るに従い、新しいことを吸収しなくなり、過去の栄光を懐かしんだりして心が頑なになり、自分が正しいと思うようになるようです。私達は、普段からよほど気を付けていないとこのような傲慢さの罪がうっかり顔を出してしまう程、傲慢さの罪は私達人間の中に根強く張り付いているのです。

このように私達人間は、自分の罪深さを自覚していないと堕落しやすい性質を持っているため、年を重ねる程、敬虔に生きることが難しくなるのです。ですから、日々、聖書を読んで神に従い、神の力を頂いて生きる必要があるのです。