Keiko's Yokohama Journal

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権力者を批判する風潮

世の中が不安定になるほど権力者への批判が高まる

2019年に始まったコロナウィルス、そして今年始まったロシアによるウクライナへの侵攻、物価の上昇や円安による経済不安、そして地震やハリケーンなどの自然災害が世界各国で起こっており、今の世の中はこれまでに経験したことがないような不安定な状況に陥っています。

そんな中で、アメリカを始め、日本、イギリスなどの世界各国で指導者に対する批判がますます高まっているように感じます。7月に銃撃された安倍元総理に対する批判もそうですが、その後の岸田総理の支持率が軒並み低下しており、彼に対する批判も鳴りやまない状態のようです。

最近、旧約聖書の第2サムエル記を読んでいます。ここでは、人類史上最高の王ともいわれるダビデ王が、息子アブサロムの謀反によってエルサレムから脱出する羽目になり、その後の戦いにおいてダビデが勝利したものの、その後、イスラエルの間で言い争いが起こっていることが19章に記載されています。(サムエル記は本当にドラマのような出来事が書かれているので、興味ある方は是非読んでみてください。)

本来、世の中が不安定になり、危機的な状況に陥った時こそ皆の心が一つにならなければいけないのに、政情が不安定になると、何故か私達人間は権力者を批判したくなり、国民がバラバラになってしまう傾向にあるようです。

これでは、危機を乗り越えるどころが、更なる政情不安に陥るばかりです。

これらはやがて起こる恐ろしい出来事のほんの始まりにすぎない

聖書には、今後私たちに何が起こるのかを非常に正確に記述しています。その一つに、新約聖書のマタイの福音書24章の5~8節にこんなことが記載されています。

自分こそキリストだと名乗る者が大ぜい現れて多くの人を惑わすでしょう。また、あちらこちらで戦争が始まったといううわさが流れるでしょう。だがそれは、わたしがもう一度来る時の前兆ではありません。こういう現象は必ず起こりますが、それでもまだ、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、至る所でききんと地震が起こります。しかし、これらはみな、やがて起こる恐ろしい出来事のほんの始まりにすぎないのです。」

今、旧統一教会を始め、キリスト教だと名乗る偽キリスト教が数多くあります。また、ウクライナ侵攻を始め、シリア内戦、アフガニスタンの紛争などが起こっており、この地球上で紛争が絶えなかった時期はありませんが、今後ますます起こると思われます。国同士の対立、そして内部分裂も今後起こり、自然災害の増加で今後ますます混沌とした世の中になっていくことが既に予言されています。

自分をよくわきまえている人は幸いを得る

そんな中でも、自分自身をよく知っている人、自分の立場をわきまえている人は、このような不安定な世の中でも幸いを得ることが、第2サムエル記19章に書かれています。その人物として、ダビデを殺害しようとした前の王だったサウルの孫、メフィボシェテ、そしてダビデエルサレムを去る時に石を投げつけて激しく罵ったシムイが挙げられていますが、彼らは自分が置かれている立場や、自分が犯した過ちを素直に認めたために、ダビデからお咎めがなく、幸いを得ることができました。

そもそもダビデは、自分の部下の妻を奪い、かつその部下さえも殺してしまったという、とんでもない罪を犯しており、それだけでも十分批判の対象となりえるのですが、私たち人間は、そもそも間違いを犯しやすい、非常に罪深い性質があるということを知らなくてはいけません。

そのようなことを自覚しない人は、自分のことを棚に置いて相手を批判します。批判して、かつその対案を出すならまだいい方なのですが、対案を出せずに批判ばかりする人がどうも多いように思えてしかたありません。

かくいう私も、安倍政権に対して不満を持っていましたが、サムエル記を読んで、これではいけないということに気づきました。

不安定な世の中でも幸いを得て生きる方法

知らない人が多いと思いますが、実は聖書にはどのような状況下においても幸いな人生をおくるヒントが沢山書かれています。その一つとして、上に立つ権威には従いなさい、と新約聖書のローマ人への手紙13章1~2節で述べています。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背くものは自分の身に裁きを招くでしょう。

全ての権威は、自分が好む好まざるに関わらず、全てが神がお許しになって立てられたものだから、従うべきだというこということが述べられています。

これは、自分が従いたい気持ちだから従う、のではなく、神様がそう命じているのだから従うのです。そして、その方が私たちのために良い、ということを聖書では言っているのです。さもなければ、自分自身にその結果を招くことになり、私達はずっと不満を抱え不幸な人生を歩むことになってしまいます。自分で蒔いた種は、自分で刈り取らなくてはいけません。

自分の気に入らない人が上に立った場合、どうしても私たちは批判したくなりますが、私たちも欠点が非常に多い人間であり、他人から批判される側でもあるということを認識していれば、そうやすやすと他人を批判することはできなくなります。

自分の見方を変えるには

これはある意味、私にとって大事な発見でしたが、人を批判する前に、相手のことを良く知ることが、自分から理解してあげることが大事ではないかと思います。私達人間は全て心にバイアスがかかっていますから、相手のある一面しか見ていないことが多く、その人が心の奥深くで一体何を考え、思っているのかについては分かりません。

私たちは往々にして、自分が見たいように物事を見ていることが多く、実は自分が思っている以上に非常に頑固です。このような頑固な見方を変えるには、聖書を読んで神からの導きを得て自分を変えて頂くこと、そして自分が尊敬できる相手から助言を得ることもよいと思います。特に、自分の考えとは全く相反する友人を持つと、より広い考え方ができるようになると思います。

そのようにあらゆる意見を包括的に取り入れ、物事を深く考えることができる人は、どのような世の中にあっても自分を見失わず、心の平安を保てる人生が送れるのではないかと思います。私もそんな人間になれればと思います!